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深草の暮らしと風景うずら鳴く里からの変遷

#1 静かな農村から軍隊のまち、そして学生のまちへ

明治までの深草は、のどかな田園風景が広がる静かな農村であった。しかし、明治になり軍隊が入ることになり、大きく変化していく。農地だった土地は、次々に軍の施設へと転用されていく一方で、人口は増えていき、にぎわいのある“街”になっていった。

軍隊のまちへ

深草が「軍隊のまち」へと変わっていくのは、明治29(1896)年に歩兵三十八連隊が深草(現京都教育大学)に駐屯したのがはじまりである。明治41(1908)年に帝国陸軍第十六師団が設置されて以降は、歩兵、騎兵をはじめ、野砲兵(やほうへい)、輜重兵(しちょうへい)、兵器廠(へいきしょう)、糧秣部(りょうまつぶ)、練兵場(れんぺいじょう)、射撃場、さらに衛戍(えいじゅ)(陸軍)病院など、関連する施設が次々と設置され、師団街道や第一・第二・第三軍道などが整備されていった。

そのほかにも、京阪電車が師団前駅(現藤森駅)を拡張し、駅の周辺が軍隊に関連する店でにぎわうなど、街全体の勢いも増していった。

教育のまちへ

戦争が終わると、深草にあった軍の関連施設は、主に教育機関(中学・高校・大学等)に転用され、若者の教育を担う「学生のまち」へと変貌していく。
主な軍の関連施設の転用先は次のとおりで、教育機関に転用されたケースの多いことが見て取れる。

  • 第十六師団司令部 → 聖母女学院
  • 歩兵第三十八連隊 → 京都教育大学
  • 騎兵第二十連隊 → 深草中学校、市営住宅
  • 野砲兵第二十二連隊 → 藤森中学校、青少年科学センター
  • 兵器支廠 → 龍谷大学、京都警察学校
  • 輜重兵第十六大隊 → 京都教育大学附属高等学校
  • 衛戍(陸軍)病院 → 京都医療センター
  • 練兵場 → 西浦町一帯、万帖敷一帯
  • 射撃場 → 鞍ヶ谷、東寺町東奥方面

#2 深草の伝統産業と特産品

地形と地質

深草の土地は、稲荷山から大岩山を主峰とする深草丘陵と、鴨川に挟まれた東西に狭い地形で、深草丘陵には大阪層群(おおさかそうぐん)と呼ばれる地層が分布しており、土質は弱酸性で小石を多分に含み、地味(ちみ)もあまり肥沃ではないため、竹やお茶、果樹の栽培が盛んであった。
一方、丘陵から外れた西浦町一帯では、2000年ほど前の深草弥生遺跡が発見され、鍬(すき)や鋤(くわ)などの木製農具や石斧(せきふ)などが出土していることから、この地域で農耕(稲作)が営まれていたと推測される。
また、この一帯は、東に高く西に低く、山は浅くて水の便が悪い地形であることから、農耕に使用した水は、灌漑(かんがい)用の溜池(ためいけ)を作って供給していたと考えられている。深草地域の蓮池、坊山池、鎮守池、新池、じゅんさい池、広形池、瓢箪池などの溜池は、埋立てられて住宅地に変貌したものもある。

深草のトウヨウゾウ(京都府レッドデータブック2015)

深草のメタセコイヤ(京都府レッドデータブック2015)

特産品

深草には、竹之下道(たけのしたみち)という名の小道があるほど竹林が多く、そのほとんどが孟宗竹(もうそうちく)で、タケノコを産したことから、「深草の筍(たけのこ)」として有名であった。
また、稲荷山のマツタケは江戸時代から有名で、1シーズンに2万本以上産出したこともあり、大部分が京都所司代に納められた。昭和初期まで盛んであった稲荷山のマツタケ狩りは下草整備がされず、今では採れなくなっている。
明治の初期、お茶は重要な輸出品で、深草の茶も宇治茶の名で輸出に貢献した。古い地図や写真で多くの茶畑や製茶場が見られるが、輸出不振から次々転作、廃業を余儀なくされた。
地元特産品であり桃山時代から栽培が始まったという甘くて小型の久保柿(くぼがき)(公方柿)は、茶の霜取りとして栽培が盛んであったが、他地域から大型の甘い柿が出回り急激に衰えた。
時代とともに、大都市・大消費地の近郊農業として、次第に野菜作りが盛んになり、野菜作りに適さない弱酸性土壌も農民の努力により改良され、大亀谷大根、伏見とうがらしに代表される深草特産の京野菜を作り出した。

盛んだった伝統産業

深草の伝統産業の一つである「深草うちわ」は、竹林が多いという深草の特色から生まれた特産品である。
親孝行で知られる瑞光寺(ずいこうじ)の元政上人(げんせいしょうにん)が、やぶ蚊を追い払い両親に涼しい風を送るためにと考案した棗(なつめ)型のうちわは「深草うちわ」と呼ばれ、骨の部分は深草で採れる竹が用いられていた。

また、同じく深草の伝統産業の一つである「伏見人形」は、稲荷山の土で造った日本最古の土人形(つちにんぎょう)で、全国にある土人形の原型ともいわれている。
深草人形、稲荷人形とも呼ばれ、稲荷大社門前で江戸時代のはじめ頃から作られるようになった。最盛期には、伏見街道に数十軒もの人形店が店を構えていたが、現在、人形を製造しているのは「丹嘉(たんか)」の1店のみとなっている。

深草の土には価値がある

深草には、“土”の特性を生かした特産品が数多くある。
その一つが「深草瓦」である。原料となる粘土は深草山から採出され、極寒の霜破れに強く、破損変色等への耐久性に優れることから、神社・仏閣に数多く用いられた。
深草には、豊臣秀吉が伏見城築城にあわせて他都市から瓦職人を招いて住まわせた「深草瓦町(かわらまち)」と呼ばれる地域がある。寛永5(1628)年に発生した京都の大火で内裏(だいり)も炎上し、再建のため棟方瓦棟梁(むなかたかわらとうりょう)を仰せつけられたが、手際よく復旧を進めたために、それ以後は「京都深草御用瓦師(ごようかわらし)」と呼ばれるようになった。
この地域には、宝暦5(1755)年には18軒、明治の頃には9軒もの瓦製造所(窯元)があったが、2021年現在は寺本氏の1軒が残るのみとなっている。

また、稲荷山南部から大亀谷にかけた一帯で採れる土は「深草土」、「黄土(きづち)」と呼ばれ、古くから数寄屋建築(すきやけんちく)や造園などの資材として用いられてきた。左官業では、土壁の仕上げを「深草に仕上げる」というほど、高級な仕上げに用いられた。
同じく、この地域で採れる砂利(じゃり)は「深草砂利」と呼ばれ、砂と石のバランスが良く、これを用いて施工される土間は「深草三和土(たたき)」と称されて、趣があると好む人も多い。
深草土・深草砂利ともに、伝統建築や文化財の修復に欠かせない貴重な資材である。

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「砥の粉(とのこ)」は、風化した頁岩(けつがん)、粘板岩(ねんばんがん)(砥石)を粉砕し、水と共に篩(ふるい)にかけながらタンクに沈降させ、微粉末を乾燥させて作られ、風化の速度で色目が変化する。
深草で採取される土は、粒子が細かく砥の粉として製造するのに最適で、板や柱などの着色、目止めや漆器などの「塗下地(ぬりしたじ)」として使われる。暖かいピンク色の深草の砥の粉は人気を博している。
また、砥の粉はニカワと混ぜて、花札やカルタの裏紙を貼るときにも用いられ、昭和の前半頃まで、稲荷から東福寺周辺にはカルタ工場や下請けの作業場が存在した。

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「岩絵具(いわえのぐ)」は、主に鉱石を砕いて作られた粒子状の日本画絵具で、粒子は砂のように粗く、艶のないマットな質感が特徴である。
深草村・町長、府議会議員、市会議長等を務め、深草地域に貢献した石田吉左衛門の生家の絵具商、石田放光堂(ほうこうどう)の絵具は、鮮明度が高く、各画家の重用するところとなり、宮内省や日光本廟、東西両本願寺などに納入するなど当時隆盛を極めた。

秀吉による伏見城築城の頃から続く深草瓦町の製造所では、深草瓦の製造技術を生かして生活用品も作られた。同じ窯を使って昭和40年頃までは「土こたつ」が焼かれ、「行火(あんか)」も製造・販売していたが、電気製品の普及により、需要はなくなった。
深草の土は、かつてさまざまな分野に用いられ、価値のある製品として高い評価を得てきた。しかし、現在は採取量が少なくなり、製品を製造・販売する業者もほとんどないのが現状である。

#3 軍隊の町 名残

軍隊の町遺構の第一番は、第十六師団司令部であった聖母女学院本館である。終戦直前頃には爆撃の標的にされないように建物全体が黒塗りにされていて、現在もその名残が探せる。
明治44(1911)年、京都駅から司令本部へ通じる直通道路として師団街道ができ、第一~第三軍道も整備された。第二軍道の鴨川運河にかかる橋は師団橋で、橋桁には五芒星(ごぼうせい)の意匠が残っている。(他の橋桁にある六芒星は旧京都市電気局の水利徽章(きしょう))
歩兵第三十八連隊の戦没者慰霊のために日露戦役後にできた記念山には、記念碑があり、行く道中は桜並木で当時遠足や花見に出かける人が多かったそうである。

当時は商店街にある住民のための銭湯(軍人湯)を軍人も利用しており、その銭湯は現在も営業している。
藤森中学校では、昭和40年まで兵舎を使用しており、銃を架けていた柵は掃除用具の箒架け(ほうきかけ)となり、汚かった校舎の掃除をよくしたそうである。
京都練兵場は広大で、当時は子ども達が凧あげや模型飛行機を飛ばすなどの遊び場でもあった。戦後は、水田や畑の農地となり、西浦町の町名となった。また、子ども達の格好の遊び場でもあった。

#4 深草の聖地巡礼

深草には数多くの天皇陵がある。
第54代の仁明(にんみょう)天皇は深草天皇ともいわれ、谷口町近くの名神高速の南側に陵がある。その北方向には法華堂(ほっけどう)と呼ばれる納骨堂で12人の天皇(持明院統「北朝」)を祀る深草十二帝陵(正式陵名は深草北陵)がある。
東福寺の南方には明治時代まで半帝(はんてい)と称された「仲恭(ちゅうきょう)天皇陵」や崇徳天皇中宮藤原聖子の「皇嘉門院(こうかもんいん)陵」、平城天皇の皇子の「阿保親王(あぼしんのう)塚」がある。
また、場所の特定で混乱を極めたのが桓武天皇陵である。江戸時代には、谷口にある古墳が陵といわれ『拾遺都名所図絵(しゅういみやこめいしょずえ)』等にも描かれている。明治時代には現在の桃山に決まるが、大亀谷の古御香宮のあたりとする説も出され、この場所も参考地として保全されている。

#5 役所の場所と名前の変遷

「深草」の地名が初めて記録に現れるのは、『日本書紀』である。明治22(1889)年に町村制の施行により深草村となり、大正11(1922)年には町制施行により深草町となる。その後、昭和6(1931)年に京都市に編入され、伏見区の一部となり、現在に至る。それ以前の明治42年の測量地図には、鴨川運河東側の今の名神高速道路の南側あたりに役場の記号(○印)がある。大正4(1915)年の地図には、深草小学に隣接して役場の記載があった。昭和44(1969)年、西浦町公団住宅(現UR)と併設で深草支所が開所(今の京都市児童療育センター「きらきら園」の場所)され、その後、平成9(1997)年に深草向畑町に移り、現在に至る。

#6 文化芸術と深草

深草は古代から文学作品に登場する土地である。
日本最古の随筆ともいわれる清少納言(966年頃~1025年頃)の『枕草子』第158段「うらやましげなるもの」には、初午の日に思い立って稲荷詣をした筆者が、山に登り疲れて休んでいたところ、七度詣(しちどもうで)をしているという女性に出会い、その健脚に驚嘆したという話が綴られている。
平安時代には、深草はうづらの里としても知られていた。『伊勢物語』第123段には、男が深草でともに暮らしていた女に送った歌「年を経てすみこし里をいでていなば いとど深草野とやなりなむ」と、女からの返歌「野とならばうづらとなりて鳴きをらむ かりにだにやは君は来ざらむ」が出ている。
後に、これらを本歌としてつくられた藤原俊成(しゅんぜい)(1114年~1204年)の

「タされば野辺の秋風身にしみて うづら鳴くなり深草の里」

はよく知られている。
俊成は藤原定家(ていか)の父で、『千載和歌集』を後白河法皇に撰進した歌人。京の五条京極に邸宅を構えていたが、深草の地を好み、没後は深草や京一帯を見渡せる深草願成町(がんじょうちょう)の高台に墓所がある。
室町時代には、小野小町(おののこまち)との悲恋物語の主人公として深草少将(ふかくさのしょうしょう)が創作され、墨染の欣浄寺(ごんじょうじ)付近に住んだとされた。

荷田春満(かだのあずままろ)(1669年~1736年)は、伏見稲荷の神官の家に生まれ、『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』などを研究して国学の先駆者となった。稲荷境内にはその旧居が今も残っている。
同じ頃に誕生した人物に、伊藤若冲(1716年~1800年)がいる。京の高倉錦小路の青物問屋の長男で、23歳で家督を継いだ。30代の頃、相国寺の大典禅師(だいてんぜんじ)に出会い、「若冲居士(じゃくちゅうこじ)」の号を授かったという。40歳で弟に家督を譲った後は、画業に専念した。天明の大火(天明8(1788)年)で家を焼失後、深草の石峰寺(せきほうじ)に隠遁(いんとん)。「斗米庵(とべいあん)」などと称して85才の長寿を全うするまで多くの作品を残した。石峰寺境内に今も残る五百羅漢石像は、若冲が下絵を描き、石工に彫らせたもので、釈迦の誕生から涅槃に至るまでの生涯を表現している。また、桃山町正宗の海宝寺には最後の作と伝えられる障壁画があり、その部屋は筆投げの間と呼ばれる。若沖の墓は、石峰寺の西向きの見晴らしの良い所にある。

夏目漱石(1867~1916年)の大正4(1915)年3月21日の日記には、午後京阪電車墨染から大亀谷を兵隊とすれ違い、太閤の千畳敷跡や仏国寺など左右の竹薮・梅花を見ながら、図案家・画家の津田青楓(つだせいふう)(1880~1978年)の家に泊まった記述がある。
青楓は現在の中京区に生誕、明治33(1900)年に歩兵第三十八連隊(現 京都教育大学)に入隊し、陸軍衛戍病院(現 京都医療センター)で衛生兵となった。谷口村の浄蓮華院(じょうれんげいん)の一室を借り、除隊まで時間があれば地域の風景を描き、後に図案集『うづら衣』を刊行した。
明治末に東京に移り漱石門下に入り漱石作品の装丁なども行った。大正4(1915)年、二科展出品制作のために、桃陽園(とうようえん)滞在中に漱石が1泊したのである。
桃陽園とは、「桃山城の東で太陽の出る所」との意味で、回遊式の日本庭園がある貸別荘で中京区の生糸問屋の井山正之助が大正初めに創設した。昭和初期まで使用され後に京都市に寄付し、昭和27(1952)年に京都市桃陽学園が開設され現在に至っている。病院前にある「祥獣(しょうじゅう)=めでたい獣」は、正之助が日本初の海外観光旅行中に博物館で見たものをコンクリート(中は土)で創作した。

深草向ヶ原町、大岩山の大岩神社には、前面に神仏や動物の姿、幾何学文様などを彫刻した2基の石鳥居が建てられている。昭和期に活躍した画家、堂本印象(どうもといんしょう)(1891年~1975年)が昭和37(1962)年に寄進した作品である。大岩神社は病気平癒の霊験があるとして、信仰を集めていた。印象とその母も熱心な信者で、鳥居は病気が平癒した感謝を表すために制作されたものという。印象には他に、「深草」と題する絵画作品がある。大正8(1919)年に第1回帝展に出品されたもので、初の入選作である。

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版画家の棟方志功(むなかたしこう)(1903年~1975年)は、1960年代に伏見稲荷大社に滞在し、襖絵(ふすまえ)「御鷹図」「御牡丹図」、壁画「七大星韻図」、「稲荷大明神」の書などを残した。(通常は非公開)
龍谷大学・顕真館(けんしんかん)に平山郁夫(ひらやまいくお)(1930年~2009年)の「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の陶板画(とうばんが)がある。これは、1984年の同館竣工の際に、飾られた縦5メートル横11メートルの大きなもので平山画伯の原画を基に制作された。

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小説家の坂口安吾(さかぐちあんご)(1906年~1955年)は、昭和11(1936)年から翌年にかけて、稲荷鳥居前町に住んでいた。
そのことは『古都』の中に書かれている。最初に住んだのは「計理士の事務所の二階で、八畳と四畳半で七円」という家だった。次には、京阪伏見稲荷駅にほど近い弁当屋の2階を借りている。この弁当屋の建物は現存しないが、最初の家は今に残り、改装されて宿泊施設となっている。
ほかに、昭和期の小説家では、昭和19(1944)年に深草の中部四十六部隊輜重輓馬隊(しちょうばんばたい)に入営した水上勉(みずかみつとむ)(1919年~2004年)がいる。『醍醐の春』には、馬の調練係を勤めていた水上らが30頭の馬を引いて墨染から大亀谷、小栗栖を経て醍醐寺まで行軍したときの描写や、晩年、心筋梗塞で入院中にかつて飼育していた馬の幻覚を見たという記述がある。
なお、水上がいた輜重輓馬隊には、同じ時期に村上春樹(1949年~)の父も所属していたことが、村上の『猫を棄てる』に書かれている。

#7 深草と伏見の上水道

明治41(1908)年に第十六師団が設置されると、井戸に頼っていたこの地域では、水が足りなくなり、明治42(1909)年に軍により軍用水道が建設された。のちの「桃山浄水場」である。(宇治川から揚水し、大亀谷の沈殿池に貯め、浄水したのち軍関係施設に配水していた)

桃山浄水場・伏見浄水場

大正期以降になると工場や宅地が増え、昭和の初めころには、京都市から給水を受けていたものの、水が不足するようになり、昭和13(1938)年この軍用水道を軍から京都市が運営委託を請け施設を引継ぎ、不足を補った。(この軍用水道は「桃山浄水場(伏見浄水場桃山分場)」として、昭和24(1949)年6月まで利用された。)
その後も配水池は、準高区配水池として、昭和27(1952)年から昭和41(1966)年まで活用された。
水不足を解消するため、新たな浄水場を増設することになり、昭和14(1939)年工事に着工したが、戦争による資材や人員の不足により、完成は大きく遅れた。昭和20(1945)年10月になって伏見浄水場はようやく完成し給水を開始した。
しかし、当初の計画からは能力が不十分であったために、その後も改修が行われたが、高度経済成長期が訪れると、さらに水需要が増大して水不足は解消されなかった。
そのため、新たに「新山科浄水場」を建設することになり、その通水が始まった昭和44(1969)年には、伏見浄水場は浄水作業休止となり、しばらく放置されたが、昭和52(1977)年に正式に廃止となった。

伏見浄水場の跡地は、貯水池が伏見北堀公園として、ろ過池や配水池は藤城小学校の校舎やグランドとして活用された。

#8 深草土器

日本書紀 雄略天皇17年には、朝廷で使用する土師器(はじき)を作るため、土師連吾笥(ハジノムラジ アケ)と云う土師氏(はじし)を、「山背国俯見(ふしみ)」から差し向けたとあり、その当時でも小土器が作られていたことがわかる。
また、下図のように深草といえば土器やカワラケの代名詞になっていたようである。
さらに、宝暦4(1754)年の『日本山海名物図会』には、「京深草かわらけ」として、若干誤りがあるが、その由来が書かれており、その当時の陶工の作業風景も見ることができる。
その少し前の正徳4(1714)年頃の様子が書かれた『京都御役所向大概覚書(きょうとおやくしょむきたいがいおぼえがき)』を見ると、深草村には150軒の小土器師が住んでいて、普段は百姓をしながら、7月に7日、12月に10日、年間に17日間だけ、小土器を作っていると書かれていた。

このように深草の土を使った焼き物は、小土器を作ることから始まり、その技術は日常的な焼き物(器や火鉢や土人形)へと受け継がれ、さらには瓦、茶器、伏見人形などに生かされてきた。
近年では、大正の御大典の際に使われる土器を「深草土器師 第五十八世 平田平右衛門」が製造し献上したことが、京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブで見ることができる。
しかしながら、深草の土を使った焼き物は、現在ではほとんど見ることができない。
余談ではあるが、この平田家の祖先である「焼塩屋権兵衛(やきしおやごんべえ)」は、深草直違橋9丁目で小土器を作り、天明5(1785)年に起きた「伏見義民(ふしみぎみん)」で知られる直訴に関わった7名のひとり。
深草の藤森神社境内には、「伏見義民 焼塩屋権兵衛の碑」が、伏見区の御香宮神社境内には「伏見義民の碑」が、その遺徳を顕彰(けんしょう)するために建てられた。

#9 深草地域の学校の沿革

深草には5つの小学校があり、最も古いのは「深草小学校」、新しいのは「藤城小学校」である。

稲荷小学校

大正5(1916)年、深草第二尋常小学校として開校し、昭和6(1931)年、京都市深草第二尋常小学校、昭和16(1941)年、稲荷国民学校と改称され、昭和22(1947)年、京都市立稲荷小学校となる。

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砂川小学校

昭和12(1937)年、深草第四尋常小学校として開校し、昭和16(1941)年、砂川国民学校と改称され、昭和22(1947)年、京都市立砂川小学校となる。

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深草小学校

明治5(1872)年、伏水第一小学校として開校し、その後 明治9(1976)年、墨染小学校、明治18(1885)年、循誘(じゅんゆう)小学校、明治22(1889)年、深草尋常小学校、大正5(1916)年、深草第一尋常高等小学校、大正11(1922)年、深草町立深草第二尋常小学校、昭和6(1931)年、京都市立深草尋常高等小学校、昭和16(1941)年、深草国民学校と改称され、昭和22(1947)年、京都市立深草小学校となる。

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藤ノ森小学校

昭和7(1932)年、深草第三尋常小学校として開校し、昭和16(1941)年、藤ノ森国民学校と改称され、昭和22(1947)年、京都市立藤ノ森小学校となる。

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藤城小学校

昭和60(1985)年、藤ノ森小学校内に東分校として開設され、昭和61(1986)年、藤ノ森小学校から独立して、京都市立藤城小学校として開校された。

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深草の5つの小学校の在校生は、令和2年度で 2、277名。内訳は、稲荷 150名、砂川 429名、深草 718名、藤ノ森 565名、藤城 415名であり、公立の場合、稲荷小学校、深草小学校は深草中学校に、砂川小学校、藤ノ森小学校、藤城小学校は藤森中学校に進学する。(藤森中学校には竹田小学校も加わる)

深草中学校・藤森中学校

深草地域の京都市立の中学校は、深草中学校と藤森中学校があり、開校時期はほぼ同じ昭和22(1947)年、昭和23(1948)年である。令和2年度の在校生は、深草 396名、藤森 835名であるが、興味深いのは、藤森中学校のある池之内町は、深草中学校の校区であり、同校は校区外に設置されている。
深草地域には前述の京都市立小学校、中学校以外にも多くの学校がある。以下、各学校の沿革を簡単に記す。

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伏見高等学校、伏見工業高等学校

大正9(1920)年、京都市立工業学校の分教場として設立され、以後、第二工業学校、伏見工業高等学校、伏見高等学校、伏見工業高等学校と改称・変遷の後、洛陽工業高等学校との統合が決定して、平成29(2017)年、全日制が京都工学院高等学校の校区に移転、令和3(2021)年、西京高等学校定時制と統合し、伏見工業高等学校跡地に、京都奏和高等学校が開校した。

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立命館中学・高等学校→京都工学院高等学校

昭和32(1957)年、立命館北大路キャンパスから深草キャンパスに移転し、平成26(2014)年、長岡京市に移転、平成28(2016)年、同跡地に京都市立京都工学院高等学校が開校した。

聖母女学院

昭和24(1949)年、聖母学院小学校、中学校を伏見に設立、昭和27(1952)年、聖母学院高等学校を設立、昭和56(1981)年、聖母女学院短期大学を統合するも、平成30(2018)年、短期大学は閉学された。

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龍谷大学、京都教育大学

龍谷大学:昭和35(1960)年、龍谷大学深草学舎を設置
京都教育大学:昭和32(1957)年、京都教育大学の全身(京都学芸大学)が北区から深草に移転し、昭和41(1966)年、京都教育大学に改称された

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