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深草の神様と祭神々とともに暮らすまち

#1 深草の神様

深草には、2つの大きな神社がある。
1つは藤森(ふじのもり)神社であり、もう1つは伏見稲荷大社である。二社ともに歴史は古く、中世の公家の日記などにも登場し、江戸時代の絵図にも描かれていて、その威容を知ることができる。

伏見稲荷大社は、全国に3万社あると言われる稲荷神社の総本宮であり、藤森神社は、深草地域一帯の産土神(うぶすながみ)である。
認知度という点からみると、伏見稲荷大社の方が全国的に知られているが、歴史という点からみると、藤森神社の方が500年以上も古い。
社伝によると、伏見稲荷大社の創建は和銅4(711)年であるのに対して、藤森神社の創建は神功皇后摂政3(203)年とされている。

深草との関係性

この二社は、氏神(うじがみ)と氏子(うじこ)という視点で比較してみるのも面白い。
藤森神社は、深草に住む人々が氏子であり、土地の“氏神さん”として敬愛され、大切に護り継がれている。
一方、伏見稲荷大社は、鴨川を渡った東寺周辺に住む人々が氏子であり、全国各地に篤(あつ)い信仰を寄せる崇敬者もおられるが、深草地域の氏神様かというとそうではない。
こうした独特の関係は、二社の祭礼からも見て取れる。
藤森神社の春の大祭(藤森祭)では、氏子の住む地域を神輿(みこし)が渡御(とぎょ)する神幸祭(しんこうさい)が執り行われるが、その際神輿が巡行するのは深草地域一帯である。
一方、伏見稲荷大社の稲荷祭では、神輿が巡行するのは西九条にある御旅所(おたびしょ)(南区)を中心とする地域である。

語り継がれる説話

藤森神社の関係者の間では、こんな説話が語り継がれている。
藤森祭の神輿は、伏見稲荷大社境内の藤尾社(ふじおしゃ)の前で稲荷社側から接待を受けるのだが、その際、神輿の担ぎ手が「土地返しや、土地返しや」と掛け声をかける風習があったという。昭和の中頃までは実際に見られたそうで、これは「伏見稲荷大社の土地は、もとは藤森神の土地であったが、稲荷神が俵一つ分の土地の借用を申し入れ、その俵の藁(わら)を解いて藁を1本ずつ繋いで長い縄にし、その縄で囲んだ土地を借り受けた…」 そんな説話から生まれた風習だそうである。

初詣と門前町のにぎわい

初詣の風景などは、さらに対照的である。
伏見稲荷大社は、全国でトップ5に入るほどの参詣者が訪れるため、境内はもちろんのこと、門前町も全国からの参詣者で賑わう。
こうした門前町の賑わいは、すでに江戸時代からあったようで、伏見人形や深草うちわなど深草と関連の深い品を扱うお店が軒を連ね、参詣のお土産物として大いに繁盛したそうである。
一方、藤森神社は、土地の氏神様として地域の人々の参詣が中心であるため、一定の混雑はあるものの、伏見稲荷大社のような門前町の賑わいはなく、比較的心静かに新年を迎えることができる。

このように、同じ深草にご鎮座される神様であっても、「深草との関係性」という視点で比較すると、二社の間には特徴的な違いが見て取れる。

#2 藤森祭

藤森神社の年中行事のうち、毎年5月5日に行われる藤森祭は有名である。(戦前は6月5日に行われていた。)
この祭は、貞観2(860)年に藤原良房が、自邸に清和天皇を招いて、「深草貞観の祭」を執り行ったのが起源とされ、千年を超える歴史と伝統を有している。
藤森神社には、江戸中期の藤森祭を描いた絵巻物が保管されているが、実はこれはレプリカで、オリジナルはイギリスの大英博物館に所蔵されている。

祭で執り行われる神事

藤森祭では、宮本下之郷、深草郷、東福寺郷、女神輿の4基の神輿と、武者行列(むしゃぎょうれつ)や鼓笛隊(こてきたい)、七福神、藤森太鼓(ふじのもりだいこ)保存会が氏子町内を巡行する。
戦後の一時期、人手不足から神輿をトラックの荷台に載せて巡行していたことがあったが、現在は担ぎ手が神輿を担ぐ本来の姿が復活している。

祭で執り行われる神事のうち、特に人気があるのが駈馬神事(かけうましんじ)である。
この神事は、疾走する馬の上で曲技を披露する、まさに命がけの神事である。馬上で逆立ちをしたり、馬の胴体に身を隠したり、戦場の馬術を再現したという見事な妙技は、スリルと迫力がある。
現在は境内の参道で行われているが、昭和の初期までは直違橋通の路上で行われていたというから驚きである。

氏子によって護り継がれる神輿

祭に用いられる4基の神輿のうち、3基の神輿(宮本下之郷、深草郷、東福寺郷)は、江戸時代に氏子の寄進によって作られたもので、現在まで長期に渡り大切に護り継がれている。
平成に入り、傷んだ箇所を大々的に修復する機会があったが、その費用の大半を氏子の寄進によって賄われており、氏子によって護り継がれた伝統は、今も脈々と息づいている。

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藤森祭から生まれた風習

藤森祭は、菖蒲(しょうぶ)の節句=端午(たんご)の節句発祥の祭ともいわれている。
こどもの日に鎧兜(よろいかぶと)をまとった五月人形を飾るのは、藤森祭の武者行列からきたもので、「藤森祭の日に飾る武者人形には、藤森の神が宿る」といわれることからはじまった風習と伝わっている。

#3 稲荷大社の祭

初午大祭

御祭神である稲荷大神が、稲荷山の三ケ峰にご鎮座された和銅4(711)年初午(はつうま)の日。大神のご神威を仰ぎ奉る祭で、平安時代初期から初午詣(はつうまもうで)が盛んで、清少納言の初午詣の様子が枕草子に記されている。
初午詣は、福参り(ふくまいり)とも呼ばれ、2日前の辰の日に、稲荷山の杉と椎(しい)の枝で作った“青山(おおやま)飾”を飾り、当日を迎える習わしがある。初午大祭では、商売繁盛・家内安全のご利益があるといわれる縁起物“しるしの杉”が授与される。
伏見稲荷大社の初詣の人出は全国トップ5に入るが、初詣は明治時代以降で、初午詣の人出は、平安時代初期以降、前日の巳(み)の日から大勢の参詣者が訪れたようである。

稲荷祭

稲荷祭の起源は諸説あるものの、平安時代初期とされ、古くは、葵祭、祇園祭とともに京の三大祭の一つに数えられており、最盛期の室町時代には、山鉾が40~50を数えたという。
稲荷祭は、神幸祭(しんこうさい)(別称「おいで」)から還幸祭(かんこうさい)(別称「おかえり」)までを指す。近年4月20日に近い日曜日を神幸祭、5月3日を還幸祭と定めた。
神幸祭では、5基の神輿に御神璽(ごしんじ)を移し、神輿、神職など供奉列(ぐぶれつ)を整えたトラックが氏子区域を巡幸し、伏見稲荷大社御旅所の奉安殿(ほうあんでん)に神輿が駐輿(ちゅうよ)する。稲荷祭期間中(4月下旬)、5基の神輿が各氏子区内を巡幸するが、その5基の氏子は、田中社(不動堂)、上社(東九条)、下社(塩小路・中堂寺の隔年交代)、中社(西九条)、四之大神(東寺八条)となっている。
還幸祭では、トラックで御旅所を出発した5基の神輿以下の供奉列は、途中東寺の僧侶による「神供(じんく)」を受けた後本社に還御(かんぎょ)する。神輿より御神璽が本殿に奉遷(ほうせん)され、無事の還御を称える還幸祭が斎行(さいこう)される。

#4 秀吉の大伏見構想の名残!? 古御香宮

宇治川に近い指月(しげつ)の高台から始まった、豊臣秀吉の伏見築城は、最終的には伏見山(木幡山(こはたやま))に大規模な城郭が建設され、城下町も整備された。伏見城は、天下を治める政庁の一角として機能し、城下に全国の大名が屋敷を構えた。深草にも大名に由来する地名が残るため、首都伏見の広がりは深草地域を飲み込む勢いがあったのかもしれない。
その象徴的なこととして、伏見の産土神(うぶすながみ)である「御香宮(ごこうのみや)」も城の鬼門(きもん)の方角の守りとして、大亀谷(おおかめだに)に移転したと伝わっている。
秀吉の後の実力者・徳川家康も、将軍宣下(せんげ)に向けて伏見に拠点を持った。その際に秀吉との違いとして、「御香宮(ごこうのみや)」を伏見に戻すという政策をとった。
そして、秀吉時代の大亀谷の「御香宮」は、「古御香宮(ふるごこうぐう)」と呼ばれるようになった。現在でも、秋祭の神輿は「古御香宮」に立ち寄っている。