#3 軍隊の町 名残
軍隊の町遺構の第一番は、第十六師団司令部であった聖母女学院本館である。終戦直前頃には爆撃の標的にされないように建物全体が黒塗りにされていて、現在もその名残が探せる。
明治44(1911)年、京都駅から司令本部へ通じる直通道路として師団街道ができ、第一~第三軍道も整備された。第二軍道の鴨川運河にかかる橋は師団橋で、橋桁には五芒星(ごぼうせい)の意匠が残っている。(他の橋桁にある六芒星は旧京都市電気局の水利徽章(きしょう))
歩兵第三十八連隊の戦没者慰霊のために日露戦役後にできた記念山には、記念碑があり、行く道中は桜並木で当時遠足や花見に出かける人が多かったそうである。
当時は商店街にある住民のための銭湯(軍人湯)を軍人も利用しており、その銭湯は現在も営業している。
藤森中学校では、昭和40年まで兵舎を使用しており、銃を架けていた柵は掃除用具の箒架け(ほうきかけ)となり、汚かった校舎の掃除をよくしたそうである。
京都練兵場は広大で、当時は子ども達が凧あげや模型飛行機を飛ばすなどの遊び場でもあった。戦後は、水田や畑の農地となり、西浦町の町名となった。また、子ども達の格好の遊び場でもあった。
#4 深草の聖地巡礼
深草には数多くの天皇陵がある。
第54代の仁明(にんみょう)天皇は深草天皇ともいわれ、谷口町近くの名神高速の南側に陵がある。その北方向には法華堂(ほっけどう)と呼ばれる納骨堂で12人の天皇(持明院統「北朝」)を祀る深草十二帝陵(正式陵名は深草北陵)がある。
東福寺の南方には明治時代まで半帝(はんてい)と称された「仲恭(ちゅうきょう)天皇陵」や崇徳天皇中宮藤原聖子の「皇嘉門院(こうかもんいん)陵」、平城天皇の皇子の「阿保親王(あぼしんのう)塚」がある。
また、場所の特定で混乱を極めたのが桓武天皇陵である。江戸時代には、谷口にある古墳が陵といわれ『拾遺都名所図絵(しゅういみやこめいしょずえ)』等にも描かれている。明治時代には現在の桃山に決まるが、大亀谷の古御香宮のあたりとする説も出され、この場所も参考地として保全されている。
#5 役所の場所と名前の変遷
「深草」の地名が初めて記録に現れるのは、『日本書紀』である。明治22(1889)年に町村制の施行により深草村となり、大正11(1922)年には町制施行により深草町となる。その後、昭和6(1931)年に京都市に編入され、伏見区の一部となり、現在に至る。それ以前の明治42年の測量地図には、鴨川運河東側の今の名神高速道路の南側あたりに役場の記号(○印)がある。大正4(1915)年の地図には、深草小学に隣接して役場の記載があった。昭和44(1969)年、西浦町公団住宅(現UR)と併設で深草支所が開所(今の京都市児童療育センター「きらきら園」の場所)され、その後、平成9(1997)年に深草向畑町に移り、現在に至る。
#6 文化芸術と深草
深草は古代から文学作品に登場する土地である。
日本最古の随筆ともいわれる清少納言(966年頃~1025年頃)の『枕草子』第158段「うらやましげなるもの」には、初午の日に思い立って稲荷詣をした筆者が、山に登り疲れて休んでいたところ、七度詣(しちどもうで)をしているという女性に出会い、その健脚に驚嘆したという話が綴られている。
平安時代には、深草はうづらの里としても知られていた。『伊勢物語』第123段には、男が深草でともに暮らしていた女に送った歌「年を経てすみこし里をいでていなば いとど深草野とやなりなむ」と、女からの返歌「野とならばうづらとなりて鳴きをらむ かりにだにやは君は来ざらむ」が出ている。
後に、これらを本歌としてつくられた藤原俊成(しゅんぜい)(1114年~1204年)の
「タされば野辺の秋風身にしみて うづら鳴くなり深草の里」
はよく知られている。
俊成は藤原定家(ていか)の父で、『千載和歌集』を後白河法皇に撰進した歌人。京の五条京極に邸宅を構えていたが、深草の地を好み、没後は深草や京一帯を見渡せる深草願成町(がんじょうちょう)の高台に墓所がある。
室町時代には、小野小町(おののこまち)との悲恋物語の主人公として深草少将(ふかくさのしょうしょう)が創作され、墨染の欣浄寺(ごんじょうじ)付近に住んだとされた。
荷田春満(かだのあずままろ)(1669年~1736年)は、伏見稲荷の神官の家に生まれ、『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』などを研究して国学の先駆者となった。稲荷境内にはその旧居が今も残っている。
同じ頃に誕生した人物に、伊藤若冲(1716年~1800年)がいる。京の高倉錦小路の青物問屋の長男で、23歳で家督を継いだ。30代の頃、相国寺の大典禅師(だいてんぜんじ)に出会い、「若冲居士(じゃくちゅうこじ)」の号を授かったという。40歳で弟に家督を譲った後は、画業に専念した。天明の大火(天明8(1788)年)で家を焼失後、深草の石峰寺(せきほうじ)に隠遁(いんとん)。「斗米庵(とべいあん)」などと称して85才の長寿を全うするまで多くの作品を残した。石峰寺境内に今も残る五百羅漢石像は、若冲が下絵を描き、石工に彫らせたもので、釈迦の誕生から涅槃に至るまでの生涯を表現している。また、桃山町正宗の海宝寺には最後の作と伝えられる障壁画があり、その部屋は筆投げの間と呼ばれる。若沖の墓は、石峰寺の西向きの見晴らしの良い所にある。
夏目漱石(1867~1916年)の大正4(1915)年3月21日の日記には、午後京阪電車墨染から大亀谷を兵隊とすれ違い、太閤の千畳敷跡や仏国寺など左右の竹薮・梅花を見ながら、図案家・画家の津田青楓(つだせいふう)(1880~1978年)の家に泊まった記述がある。
青楓は現在の中京区に生誕、明治33(1900)年に歩兵第三十八連隊(現 京都教育大学)に入隊し、陸軍衛戍病院(現 京都医療センター)で衛生兵となった。谷口村の浄蓮華院(じょうれんげいん)の一室を借り、除隊まで時間があれば地域の風景を描き、後に図案集『うづら衣』を刊行した。
明治末に東京に移り漱石門下に入り漱石作品の装丁なども行った。大正4(1915)年、二科展出品制作のために、桃陽園(とうようえん)滞在中に漱石が1泊したのである。
桃陽園とは、「桃山城の東で太陽の出る所」との意味で、回遊式の日本庭園がある貸別荘で中京区の生糸問屋の井山正之助が大正初めに創設した。昭和初期まで使用され後に京都市に寄付し、昭和27(1952)年に京都市桃陽学園が開設され現在に至っている。病院前にある「祥獣(しょうじゅう)=めでたい獣」は、正之助が日本初の海外観光旅行中に博物館で見たものをコンクリート(中は土)で創作した。
深草向ヶ原町、大岩山の大岩神社には、前面に神仏や動物の姿、幾何学文様などを彫刻した2基の石鳥居が建てられている。昭和期に活躍した画家、堂本印象(どうもといんしょう)(1891年~1975年)が昭和37(1962)年に寄進した作品である。大岩神社は病気平癒の霊験があるとして、信仰を集めていた。印象とその母も熱心な信者で、鳥居は病気が平癒した感謝を表すために制作されたものという。印象には他に、「深草」と題する絵画作品がある。大正8(1919)年に第1回帝展に出品されたもので、初の入選作である。
版画家の棟方志功(むなかたしこう)(1903年~1975年)は、1960年代に伏見稲荷大社に滞在し、襖絵(ふすまえ)「御鷹図」「御牡丹図」、壁画「七大星韻図」、「稲荷大明神」の書などを残した。(通常は非公開)
龍谷大学・顕真館(けんしんかん)に平山郁夫(ひらやまいくお)(1930年~2009年)の「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の陶板画(とうばんが)がある。これは、1984年の同館竣工の際に、飾られた縦5メートル横11メートルの大きなもので平山画伯の原画を基に制作された。
小説家の坂口安吾(さかぐちあんご)(1906年~1955年)は、昭和11(1936)年から翌年にかけて、稲荷鳥居前町に住んでいた。
そのことは『古都』の中に書かれている。最初に住んだのは「計理士の事務所の二階で、八畳と四畳半で七円」という家だった。次には、京阪伏見稲荷駅にほど近い弁当屋の2階を借りている。この弁当屋の建物は現存しないが、最初の家は今に残り、改装されて宿泊施設となっている。
ほかに、昭和期の小説家では、昭和19(1944)年に深草の中部四十六部隊輜重輓馬隊(しちょうばんばたい)に入営した水上勉(みずかみつとむ)(1919年~2004年)がいる。『醍醐の春』には、馬の調練係を勤めていた水上らが30頭の馬を引いて墨染から大亀谷、小栗栖を経て醍醐寺まで行軍したときの描写や、晩年、心筋梗塞で入院中にかつて飼育していた馬の幻覚を見たという記述がある。
なお、水上がいた輜重輓馬隊には、同じ時期に村上春樹(1949年~)の父も所属していたことが、村上の『猫を棄てる』に書かれている。
#7 深草と伏見の上水道
明治41(1908)年に第十六師団が設置されると、井戸に頼っていたこの地域では、水が足りなくなり、明治42(1909)年に軍により軍用水道が建設された。のちの「桃山浄水場」である。(宇治川から揚水し、大亀谷の沈殿池に貯め、浄水したのち軍関係施設に配水していた)
桃山浄水場・伏見浄水場
大正期以降になると工場や宅地が増え、昭和の初めころには、京都市から給水を受けていたものの、水が不足するようになり、昭和13(1938)年この軍用水道を軍から京都市が運営委託を請け施設を引継ぎ、不足を補った。(この軍用水道は「桃山浄水場(伏見浄水場桃山分場)」として、昭和24(1949)年6月まで利用された。)
その後も配水池は、準高区配水池として、昭和27(1952)年から昭和41(1966)年まで活用された。
水不足を解消するため、新たな浄水場を増設することになり、昭和14(1939)年工事に着工したが、戦争による資材や人員の不足により、完成は大きく遅れた。昭和20(1945)年10月になって伏見浄水場はようやく完成し給水を開始した。
しかし、当初の計画からは能力が不十分であったために、その後も改修が行われたが、高度経済成長期が訪れると、さらに水需要が増大して水不足は解消されなかった。
そのため、新たに「新山科浄水場」を建設することになり、その通水が始まった昭和44(1969)年には、伏見浄水場は浄水作業休止となり、しばらく放置されたが、昭和52(1977)年に正式に廃止となった。
伏見浄水場の跡地は、貯水池が伏見北堀公園として、ろ過池や配水池は藤城小学校の校舎やグランドとして活用された。
#8 深草土器
日本書紀 雄略天皇17年には、朝廷で使用する土師器(はじき)を作るため、土師連吾笥(ハジノムラジ アケ)と云う土師氏(はじし)を、「山背国俯見(ふしみ)」から差し向けたとあり、その当時でも小土器が作られていたことがわかる。
また、下図のように深草といえば土器やカワラケの代名詞になっていたようである。
さらに、宝暦4(1754)年の『日本山海名物図会』には、「京深草かわらけ」として、若干誤りがあるが、その由来が書かれており、その当時の陶工の作業風景も見ることができる。
その少し前の正徳4(1714)年頃の様子が書かれた『京都御役所向大概覚書(きょうとおやくしょむきたいがいおぼえがき)』を見ると、深草村には150軒の小土器師が住んでいて、普段は百姓をしながら、7月に7日、12月に10日、年間に17日間だけ、小土器を作っていると書かれていた。
このように深草の土を使った焼き物は、小土器を作ることから始まり、その技術は日常的な焼き物(器や火鉢や土人形)へと受け継がれ、さらには瓦、茶器、伏見人形などに生かされてきた。
近年では、大正の御大典の際に使われる土器を「深草土器師 第五十八世 平田平右衛門」が製造し献上したことが、京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブで見ることができる。
しかしながら、深草の土を使った焼き物は、現在ではほとんど見ることができない。
余談ではあるが、この平田家の祖先である「焼塩屋権兵衛(やきしおやごんべえ)」は、深草直違橋9丁目で小土器を作り、天明5(1785)年に起きた「伏見義民(ふしみぎみん)」で知られる直訴に関わった7名のひとり。
深草の藤森神社境内には、「伏見義民 焼塩屋権兵衛の碑」が、伏見区の御香宮神社境内には「伏見義民の碑」が、その遺徳を顕彰(けんしょう)するために建てられた。
#9 深草地域の学校の沿革
深草には5つの小学校があり、最も古いのは「深草小学校」、新しいのは「藤城小学校」である。
稲荷小学校
大正5(1916)年、深草第二尋常小学校として開校し、昭和6(1931)年、京都市深草第二尋常小学校、昭和16(1941)年、稲荷国民学校と改称され、昭和22(1947)年、京都市立稲荷小学校となる。
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砂川小学校
昭和12(1937)年、深草第四尋常小学校として開校し、昭和16(1941)年、砂川国民学校と改称され、昭和22(1947)年、京都市立砂川小学校となる。
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深草小学校
明治5(1872)年、伏水第一小学校として開校し、その後 明治9(1976)年、墨染小学校、明治18(1885)年、循誘(じゅんゆう)小学校、明治22(1889)年、深草尋常小学校、大正5(1916)年、深草第一尋常高等小学校、大正11(1922)年、深草町立深草第一尋常高等小学校、昭和6(1931)年、京都市立深草尋常高等小学校、昭和16(1941)年、深草国民学校と改称され、昭和22(1947)年、京都市立深草小学校となる。
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藤ノ森小学校
昭和7(1932)年、深草第三尋常小学校として開校し、昭和16(1941)年、藤ノ森国民学校と改称され、昭和22(1947)年、京都市立藤ノ森小学校となる。
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藤城小学校
昭和60(1985)年、藤ノ森小学校内に東分校として開設され、昭和61(1986)年、藤ノ森小学校から独立して、京都市立藤城小学校として開校された。
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深草の5つの小学校の在校生は、令和2年度で 2、277名。内訳は、稲荷 150名、砂川 429名、深草 718名、藤ノ森 565名、藤城 415名であり、公立の場合、稲荷小学校、深草小学校は深草中学校に、砂川小学校、藤ノ森小学校、藤城小学校は藤森中学校に進学する。(藤森中学校には竹田小学校も加わる)
深草中学校・藤森中学校
深草地域の京都市立の中学校は、深草中学校と藤森中学校があり、開校時期はほぼ同じ昭和22(1947)年、昭和23(1948)年である。令和2年度の在校生は、深草 396名、藤森 835名であるが、興味深いのは、藤森中学校のある池之内町は、深草中学校の校区であり、同校は校区外に設置されている。
深草地域には前述の京都市立小学校、中学校以外にも多くの学校がある。以下、各学校の沿革を簡単に記す。
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伏見高等学校、伏見工業高等学校
大正9(1920)年、京都市立工業学校の分教場として設立され、以後、第二工業学校、伏見工業高等学校、伏見高等学校、伏見工業高等学校と改称・変遷の後、洛陽工業高等学校との統合が決定して、平成29(2017)年、全日制が京都工学院高等学校の校区に移転、令和3(2021)年、西京高等学校定時制と統合し、伏見工業高等学校跡地に、京都奏和高等学校が開校した。
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立命館中学・高等学校→京都工学院高等学校
昭和32(1957)年、立命館北大路キャンパスから深草キャンパスに移転し、平成26(2014)年、長岡京市に移転、平成28(2016)年、同跡地に京都市立京都工学院高等学校が開校した。
聖母女学院
昭和24(1949)年、聖母学院小学校、中学校を伏見に設立、昭和27(1952)年、聖母学院高等学校を設立、昭和56(1981)年、聖母女学院短期大学を統合するも、平成30(2018)年、短期大学は閉学された。
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龍谷大学、京都教育大学
龍谷大学:昭和35(1960)年、龍谷大学深草学舎を設置
京都教育大学:昭和32(1957)年、京都教育大学の全身(京都学芸大学)が北区から深草に移転し、昭和41(1966)年、京都教育大学に改称された
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