#1 交通の要である深草
深草は、古くから都と諸国をつなぐ交通の要衝であり、京の中心部と港町の伏見を結ぶ中継地として、独自の歴史と文化を育んできた街でもある。
平安期の深草
平安京の造営に伴って整備されてきた大和大路(やまとおおじ)は、深草の東を大きな寺社を結ぶように南北に通っていた。
この時代の深草は、皇族や貴族の別荘地となり、陵墓や寺院が建立され、都人が行き交う姿が想像される。
桃山・江戸期の深草
桃山時代、豊臣秀吉は伏見に伏見城を築き、周辺には大名屋敷が建てられて城下町が形成された。伏見は、淀川を利用して大阪と京都をつなぐ人と物資の集散地であったが、伏見城の築城により、天下の政庁としての機能をあわせ持つ先端都市へと変貌した。
こうした変化に伴い、深草では伏見を経由して都へ通じる「伏見街道(直違橋通)(すじかいばしどおり)」や、藤森神社から東国(江戸)へ通じる「大津街道」などの交通路が整備されていった。
京都への路と江戸への路の分岐点となった深草は、大津から大阪までの4宿場(しゅくば)(伏見・淀・枚方・守口)を加えた「東海道五十七次」の街道の一部で、参勤交代で江戸へ行き来していた西国大名も通っていた。
街道の整備が進むにつれて、観光を含めた人や物資の往来もますます盛んになり、稲荷大社周辺では伏見人形や深草うちわのお店が並び、お土産物を求める全国からの参詣者で大いに繁盛し、街道沿いにはさまざまな商家が軒をつらね、街のにぎわいに彩を添えた。また、幕末に多くの志士たちが駆け抜けたのもこの路である。
明治期以降の深草
明治時代には、近代化の訪れとともに、深草の“交通”にも大きな変化がみられた。
明治初年に人力車が登場し、伏見稲荷への参詣にも利用されるようになり、 明治13(1880)年には、稲荷山の麓に沿って官設鉄道(かんせつてつどう)(のちの東海道線)が敷かれ、東京への汽車が走り、明治27(1894)年には、鴨川運河(かもがわうんが)が完成し、大津-大阪間に新たな水路が開かれた。
翌年の明治28(1895)年には、京都市電の前身である京都電気鉄道(伏見線)が、 日本初の電気鉄道として開業し、また同じ年、大阪の篤志家が私財をなげうって建設した稲荷新道(いなりしんみち)は、伏見稲荷の新しい参詣道となり、明治43(1910)年には、京阪電車が開通し、深草経由で京都への電車が走った。
第二次大戦後の大きな変化としては、昭和30年代に日本で最初に開通した高速道路である名神高速道路(栗東~尼崎間)が深草を横断し、この頃から本格的な車社会が到来することになる。
昭和40年代になると、自動車の通行の妨げになるとして京都市電の廃止が決定し、昭和45(1970)年、市内で最も早く廃線となったのが深草を走る伏見線と稲荷線だった。
廃線になった京都市電に替わり、市バスの路線が拡充され、深草の街にもたくさんの市バスが走るようになった。(昭和63(1988)年に市営地下鉄烏丸線が竹田駅まで延伸されると、直違橋通を走っていた市バス路線は廃止された。)
いつの時代も深草は、それぞれの思いを持った人や物が行き交う交通の要として発展してきた街である。
#2 鴨川運河をたどる
明治23(1890)年、琵琶湖疏水(そすい)が開通し、京都・大津間が水路で結ばれた。その後、明治28(1895)年に鴨川運河が開通したことにより、京都から伏見へ、さらに淀川を通り大阪への水路が完成した。
また、明治45(1912)年には京都三大事業の一つとして「第二疏水」が完成し、これに伴い水量が増大したことから、鴨川運河の川幅は2倍に改修され現在のようになった。
深草を南北に貫く水の路
夷川冷泉(えびすがわれいせん)放水口から鴨川左岸に沿って八つの閘門(こうもん)を通り、南下した鴨川運河は、塩小路付近から鴨川を離れ、深草の町のほぼ中央を南下し墨染の船溜まり(ふなだまり)へ。そこから伏見インクラインで約15mの高低差を約5分間で下の船溜まりまでたどり着く。その後は、伏見城の外堀の跡「濠川(ごうかわ)」、そして宇治川につながっていた。
舟運
京都から伏見への運搬物は、糠(ぬか)や雑貨や肥料など。伏見からは石炭や木炭などが運ばれた。しかし、明治末期になると鉄道や自動車での運送が主流になり、舟運(しゅううん)は急速に減少していき、昭和23(1948)年、伏見インクライン休止に伴い、鴨川運河の舟運は終わった。
架かる橋
鴨川運河が通ったことにより、東西の往来が遮られることとなり、旧道があった場所には橋が架けられた。しかし、上りの舟は人力で引き上げるので、人が通るための道が運河の両側にできていた。このために、人が通るよう両岸より高くなった三角橋(さんかくばし)が架けられた。
様々な橋とその変遷
鴨川運河に架かる橋は、深草管内だけでも20橋を超える。
「橋梁(きょうりょう)などが群として存在する独特な景観を造り出している」として、令和元(2019)年に、「土木学会選奨土木遺産(せんしょうどぼくいさん)」に認定された。
明治末期の鴨川運河拡幅(かくふく)工事の際に全ての橋が架け替えられたが、そのときは全て木造であった。しかし、大正末期から昭和初期にかけて架けられた橋はコンクリートや鉄桁を使用し、主要な親柱(おやばしら)や高欄(こうらん)には花崗岩(かこうがん)を使用しており、人道橋(じんどうきょう)以外は個性的な橋になっていた。
人道橋は高欄が低かったが、改修時の基準に合わせて、次第に高くなっていった。一方で橋脚(きょうきゃく)や橋桁(はしげた)部分は当時のままの橋が多く残っており、現状と比較することで、年代による改修方法の違いを見ることができる。
伏見稲荷大社 初午詣
平安時代から続く初午詣は、江戸時代には、さらに盛んになっていた。
近代になり、鴨川運河と京都電気鉄道の開通で、明治28(1895)年の初午(2月4日)は大層なにぎわいであった。
官営鉄道は臨時便を出し、京都から稲荷まで 往復3銭
鴨川運河は五条橋南や大仏正面の乗り場から稲荷まで 1銭
高瀬舟は四条、松原、七条から稲荷まで1銭5厘
人力車は七条から稲荷まで3銭、勧進橋から稲荷まで1銭5厘
その後、京都電気鉄道は、明治37(1904)年に稲荷線を開業し、鴨川運河の上に「稲荷停留所」を作り、大正7(1918)年に京都市に引き継がれた。
#3 チンチン電車が走った街
京都電気鉄道(伏見線)の開業
明治28(1895)年、日本初の電気鉄道である京都電気鉄道(伏見線)が開業した。京都駅(七条停車場)南から勧進橋、棒鼻(ぼうばな)を経て京橋(伏見町下油掛(しもあぶらかけ))へ至る、深草地域の西辺をかすめる経路だった。停留所は設けられず、どこでも乗り降り自由だった。車掌が運転士への合図として鳴らすベルの音から「チンチン電車」と呼ばれて親しまれた。大阪からの蒸気船が着く伏見港と京都市中心部を結び、京都~大阪間のメインルートになるとともに、伏見稲荷に参拝する人々にも利用された。
伏見稲荷を描いた当時の錦絵(にしきえ)には、チンチン電車とともに、赤い旗を持って電車の前を走る「電車告知人(こくちにん)」が見える。
稲荷線の開通
明治37(1904)年には、勧進橋~稲荷間の稲荷線が開通した。
稲荷新道に平行して勧進橋から鴨川運河端に至る路線で、西端と東端の標高が高く中央が窪んだ地形であったため、西から東へ緩やかに上る築堤(ちくてい)上に線路が敷設された。途中の高瀬川は鉄橋で渡った。
京都電気鉄道から京都市電へ
明治43(1910)年に京阪電気鉄道が開業すると、京都-大阪間の移動には電車が利用されるようになり、淀川の蒸気船は衰退していった。そこで大正3(1914)年に、京都電気鉄道伏見線は中書島まで延長された。しかし、明治45(1912)年に開業していた京都市電との競合で京都電気鉄道は経営難となり、大正7(1918)年に京都市に買収された。
京都市電となった稲荷線では、稲荷-勧進橋間に停留所はなかったが、稲荷から京都駅まで乗り換えなしで行くことができた。
1960年代になると乗用車が普及し、道路を走る京都市電は交通渋滞の原因となり、また自動車との接触や衝突事故も頻発したことから、市電は廃止されることになった。昭和45(1970)年、京都市電全線の中で最初に廃線となったのは、伏見線と稲荷線だった。